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IZINDABA 第2号   2003年5月13日発

1.ネルソン・マンデラ氏、”私の一部を失ってしまったようだ”

ウォルター・シスル氏死去続報-5月5日に死去したウォルター・シスル氏へのネルソン・マンデラ氏からの追悼のメッセージから印象的だった部分を抜粋します。 “XHAMELA(ウォルターのコサ名)は、もういません。彼が永遠に生き続けてくれたらと願っていたのに。まるで心にぽっかり穴があいたようです。私の一部がなくなってしまいました。初めて彼に会ったときから、彼は私の友人であり、兄であり、世話人であり、そして同志でした。この62年間、私たちは共に喜びも苦しみも分かち合ってきました。彼は私が人々のリーダーとして働くべきであるということを私に教え、その道を示してくれたのです。かつて彼の周りには活力に満ちた、頭脳明晰な若者がいつも集っていました。実際彼は高等教育を受けていません。しかし、それぞれ強い個性をもった若者達皆から慕われ、マグネットのように我々を一つにまとめていたのです。そんな中からANC YOUTH LEAGUEが発足しました。彼の静かな勇気と自信は我々にとってとても頼もしいもので、彼は自らが確実にやろうとしていること以外は、他人に頼むようなことは決してしませんでした。組織としてANCが大きくなっていく中で、方向性の違いなども出てきました。そんな時いつも彼は、組織は少数白人支配のもとで抑圧されている有色人たちを開放するためのものであり、その目的のために働くのだ、ということを我々に改めて認識させるのでした。ロベン島時代、各政治組織のリーダーたちが投獄されていたため、下手するとライバル意識が起こりそうになる中で、囚人達を一つにまとめたのも彼でした。新しい国になってから、彼は議員にも、大臣にも、大統領にもなっていません。我々のように賞や称号をもらったり、世界中を飛び回ったりもしていません。けれども、彼の謙虚さや本質的な威厳は私たち誰よりも数段高いところにあり、それは賞や称号で改めて確認されるようなものではありません。人々のリーダーとしての彼の地位はゆるぎないものなのです。彼は常に他人の長所を見ようとしていました。結果、その長所が引き出されてくるわけです。そして特筆すべきは一生涯を共にした妻、 アルバティーナと家族との深い愛情でしょう。2人は共に強い信念と、惜しみなく分け与える精神を持ち、それによって苦難の時代もそれぞれの役割を果たしながら強く結ばれていました。彼にとって、新しい南アフリカを見ることができ、そこで生きることができたのは何よりの幸せだったに違いありません。次に私の番がきた時は、ウォルターが待っていてくれるので安心です。きっとFREEDOM CHARTER(自由憲章)を人々に広めるときに歌った彼の大好きな歌で迎えてくれることでしょう。彼がいなくなって本当に寂しいです。また会うときまで、HAMBA KAHLE,XHAMELA QHAWE LA MA QHAWE (さようなら、シャメラ、ヒーローの中のヒーロー)”


ニュース映像で見るマンデラ氏の表情は実につらそうで、やはりショックが大きいようです。少し前から歩行が辛そうではあったのですが、シスル家に弔問に訪れた時は、人々に支えられて歩くのがやっとという感じでした。それに加えてウィニーの事件や、娘のジンジの事件(下記参照)など、心労が絶えないことでしょう。マンデラ氏がコメントしたように、シスルファミリーは強い絆で結ばれています。政界や財界に入った子供たちやその家族は皆ウォルターの志を継いで“清廉、誠実”をモットーにしているといった感じで、評判が高く、とても尊敬されています。それに引き換えマンデラファミリーは、少し前に彼の甥も逮捕されたり、先日従姉妹がダーバンで不審な死を遂げたりとどうも問題が多いのです。ウォルターと看護婦であったアルバティーナの結婚式のベストマンを務めたのはマンデラで、ブライドメイドは彼の最初の奥さんとなる、やはり看護婦のエヴリンでした。その後二人は結婚するのですが、後にウィニーが“現れてしまう”のです。彼女の美しさ、聡明さと強さはマンデラを惹きつけたことでしょう。しかしこれが後に彼を悩ますことになろうとは、若い彼には想像もつかなかったに違いありません。シスルとマンデラ、二人の人生は、波乱万丈に満ち、それぞれ明暗がありながら、同じ一つの目的に向かって闘いつづけるということで深くつながっていました。それは確実に歴史の一部に刻まれることでしょう。

2.ジンジ・マンデラ敗訴。400万ランド(約6千400万円)返還請求

銀行からの借金の返済を怠ったとして訴えられていたジンジとその夫は、利息を含む全額の支払いをジョハネスバーグ最高裁より命じられました。1999年に音楽プロモーターとして大物ミュージシャンを米国から招く際に銀行から借りたもので、その後支払いが滞っていました。そしてその結末は、“匿名の海外からのビジネスマン”がこの借金の肩代わりをするということで、銀行と話し合いに入ったということです。銀行としては返してもらえればそれでいいのでしょうが、何だか怪しいものが漂っている感じです。とりあえず7月9日までに解決がつかない場合は、2人の財産を没収するということで決着がつきました。 しかし、あの母娘は“マンデラ”の名を使い好き勝手なことをし、結果その名を汚しているような感じです。借金は返せないが豪邸に住んでベンツを乗り回しているのですから。銀行も銀行で、地道にビジネスをしている小さな企業には目もくれないくせに、ただ著名なだけで、経験もない人々にほいほいと貸して、結局はこの始末。自業自得でしょう。こんな事件があったにもかかわらず、ジンジとその夫のプロダクションは、ジョハネスバーグ市が主催する“アーツ・アライブ”というイベントの主要メンバーに選ばれています。政府や役所も“マンデラ”の名には弱いのでしょう。

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